時計はただ「時を告げる道具」ではありません。
それを手首にまとうことは、日々のリズムを可視化し、人生のテンポを形づくる行為でもあります。バッグやドレスが空間を演出するのに対し、時計は「時間」そのものを身につける、そんな哲学的な魅力を秘めています。
なかでも機械式時計は、電池ではなくゼンマイの力で動きます。リュウズを回すたびにゼンマイが巻き上げられ、静かな鼓動のように秒針が動き出します。
リュウズを回す瞬間、時間はより意識され、平等に与えられたものだと実感し、その小さな動作が、日常に「刻む」という意識を呼び覚ますのです。
第1章|CHANELと時計事業の始まり
CHANELが本格的に時計事業に取り組み始めたのは1980年代後半。ファッションメゾンとしての歴史は長くとも、時計の分野では後発でした。
高級時計、化粧品、香水はいずれもラグジュアリーブランドにとって収益性が高く、ブランド力を活かして事業化しやすい分野といえます。なかでも高級時計市場は、スイス製が圧倒的な歴史とシェアを誇り、伝統的な老舗がすでに強固な地位を築いていました。
そのため、後発企業が参入し成功することは容易ではありません。
それでもCHANELは挑戦しました。ファッションと同じように「時」にもブランドの美学を投影し、独自の表現を模索したのです。
どのようにしてCHANELが時計事業で現在の地位を確立したのか。その歩みを、ここから辿っていきたいと思います。

第2章|シャネル初の時計「プルミエール」
CHANELが初めて世に送り出した時計は、1987年の「プルミエール」でした。文字盤を囲むケース、つまり時計の「顔」ともいえる部分は、CHANELを象徴するN°5の香水瓶キャップのフォルムを写し取った八角形でした。
その形は同時に、パリ・ヴァンドーム広場のシルエットとも響き合います。八角形のフォルムには、CHANELが大切にしてきたシンプルさ、アイコン性、そしてパリとの結びつきがすべて込められていました。

プルミエールは、スイス時計の伝統的な機械式時計とは異なり、クォーツムーブメントを搭載し、ファッション表現の延長として誕生した「モードの時計」でした。
秒針を排した文字盤は、時間を正確に刻むためではなく、女性の手首をエレガントに演出するためのデザイン。ジュエリーとファッションの延長線上にありながらも、そこにはCHANELらしいミニマリズムが息づいていました。
実用性と美しさを同時に追求する姿勢は、この時点ですでに現在のCHANELウォッチ事業の根幹を形づくっていたのです。
プルミエールは「時を測るための道具」というより、女性の手首に寄り添い「時をまとう」ためのアクセサリーとして提案されたといえるでしょう。そして後のJ12が、CHANELを「時計メーカー」として認知させる転機になったことを思うと、この最初の一歩の意味はとても大きいのです。
第3章|本格機械式時計「J12」
2000年、CHANELは新たな挑戦として「J12」を発表しました。
これまでの「モードの時計」という枠を越え、スイス時計業界の本流である機械式時計の領域に正面から足を踏み入れたのです。
J12を特別な存在にしたのは、まず徹底した素材へのこだわりでした。
CHANELが選んだのは、航空機や宇宙開発にも使われるハイテク・セラミックです。金属のような強度を持ちながら、軽量で傷がつきにくい。
そして何より、光を受けて独特の艶を放つこの素材は、CHANELの「機能性と美しさを同時に満たす」という哲学に合致しています。

しかもそれは単なるコーティングではなく、「塊」として成形することへの執念でした。セラミックを塊で仕上げることは、時計業界でも非常に難しい技術とされています。その理由は以下の通り。
焼成工程での収縮の制御
セラミックは焼成(sintering)の過程で大きく収縮します。IWCは公式解説で「焼成の際におよそ3分の1縮む」と述べており、その収縮を予測した設計と試作を重ねなければ、精密な時計部品としては成立しません。
時計ケースやブレスレットにはミクロン単位の精度が必要であり、この制御は極めて高度な技術です。
出典: IWC:Innovative materials – Ceramics
加工と研磨の難しさ
焼成後のセラミックは非常に硬く、通常の金属加工のように切削することはできません。Quill & Pad誌の解説では「研磨や切削にはダイヤモンド工具や特殊な研磨剤が必要」と述べられており、仕上げの難しさと工程の複雑さが指摘されています。
また、硬さゆえに脆く衝撃に弱いため、時計ケースとして形にするには極めて高い技術が要求されます。
出典: Quill & Pad:Understanding Ceramics Now Used For Watch Cases
発色の均一性
特に白いセラミックは、わずかな不純物や焼成条件の差によって色ムラが出やすく、理想の白を得るのに長い研究が必要だったようです。
店舗でCHANELのスタッフの方から「J12のホワイトモデルは、納得のいく白を実現するまで発表されなかった」とお話を伺い、その開発の難しさを物語っています。
前例のない挑戦を行い、7年の歳月を費やしてようやく完成に至ったJ12。
この難しさを乗り越えて実現したからこそ、J12は時計業界に革新をもたらし、CHANELを単なるファッションブランドから「本格的な時計メーカー」へと押し上げたのです。
さらにJ12は、それまでCHANEL全体の事業が女性向けを中心としてきた中で、初めて男性へと視野を広げた時計でもありました。
興味深いのは、洋服ではなく時計という分野で男性市場に挑んだという点です。女性のスタイルを築き上げてきたCHANELが、時計を通してユニセックスの領域に踏み出したことは象徴的でした。

image by CHANEL
そもそもココ・シャネル自身が、男性用のジャージーやツイードを取り入れ、女性のためのしなやかなジャージードレスやシックなジャケットへと生まれ変わらせた人物です。
J12におけるジェンダーを超えたデザインの視点は、彼女が切り開いた「性別に縛られない装い」の精神を受け継いでいるともいえるのではないでしょうか。
黒のJ12は力強さとモダンさを備え、ジェンダーを超えて愛されるアイコンとなりました。こうしてJ12は、女性のために始まったCHANELの時計事業を、ユニセックスへ、そして普遍的なデザインへと押し広げていったのです。
第4章|後発ながら成功した理由
スイス時計の伝統は、数百年にわたり積み重ねられてきました。パテック フィリップ、ロレックス、オーデマ ピゲといった老舗ブランドが揺るぎない地位を築く中、CHANELの参入は明らかに後発でしたが、だからこそ可能だったアプローチがありました。
CHANELが選んだ戦略は、伝統に追随するのではなく、革新と美学で差別化することでした。
J12のセラミック素材はその象徴であり、ジェンダーレスでモダンなデザインは、誰のためでもなく、しかし誰もが自分のものとしてまとえる「普遍の時計」として提示されたのです。
さらにCHANELは、「実用性優先で無駄がないが、美しさも同時に追求する」というポリシーを徹底しました。単なる装飾でもなく、単なる道具でもない。その両立が、人々に「身につける理由」を与えたのです。
結果として、J12は単なる一モデルにとどまらず、CHANELにおける新たなブランドアイコンとなりました。バッグでいえば「マトラッセ」、香水でいえば「N°5」と並ぶ存在として、時計分野に永続的な柱を築いたのです。
私自身も、J12を着けていると「これは時計である以上に、CHANELが提示する「時間の美学」を自分の手首にまとっているのだ」と実感します。
そして忘れてはならないのが、定期的に登場する遊び心あふれるJ12のコレクションです。
スケルトンモデル、ダイヤモンドをあしらった限定モデル、さらには「時」そのものを再解釈するアーティスティックなモデルまで。こうした挑戦が、J12を単なる定番ではなく、時代とともに進化する生きたアイコンへと押し上げているのです。
コラム|「時」を問いかけるJ12の実験
CHANELのJ12には、定番を超えて「時間そのもの」に挑むようなモデルも存在します。
- J12 Rétrograde Mystérieuse(2010年)
クロノグラフ針が一定位置まで進むと逆行するレトログラード機構を搭載。さらに、通常はリュウズで行う時刻合わせを文字盤側のプッシュボタンで操作するという独自の構造を持ち、伝統的な時計の動きとは異なる視覚的インパクトをもたらしました。
- J12 X-Ray(2020年)
ケース、ブレスレット、文字盤に至るまでサファイアクリスタルで成形された設計により、ムーブメントが透けて見える構造を実現しました。これは、時を生み出す仕組みそのものを目で追体験するものとして提示しています。つまり、これまで「隠されていたもの=時間を生み出すメカニズム」を可視化することで、時とは何かという感覚を視覚的に揺さぶっているように思えます。
- Mademoiselle J12(2017年〜)
ココ・シャネルのシルエットを文字盤に配し、彼女の両腕が時計の針となって時を刻むモデル。時間とともに腕が動く姿はシュールでありながらユーモラスで、CHANELらしい遊び心を象徴しています。私自身もこのモデルが特に好きで、ふと視線を落としたときにマドモアゼルがジェスチャーを変えているように見えるのが、なんとも魅力的です。
これらのモデルは、J12が単なる実用時計ではなく、時間の概念そのものを遊び心と哲学で問い直す存在であることを示していると私は感じます。
第5章|自前の工房が示すクラフツマンシップ
CHANELが時計の分野で本物と認められた理由のひとつは、単にデザインや素材の革新にとどまらず、自前の工房を構え、技術そのものに投資したことにあります。
その拠点はスイスのラ・ショー・ド・フォン。伝統ある時計産業の中心地に自社の工房を設立し、時計製造を「内製化」する道を選びました。ここではムーブメントの設計から組み立て、仕上げまでが一貫して行われています。
その象徴が、2016年に発表された自社開発ムーブメント「Caliber 1」です。ジュネーブ時計グランプリ(GPHG)の公式サイトでは、
2016年に発表された、ジャンピングアワーとレトログラードミニッツを備えたCHANEL初の自社開発ハイウォッチメイキングムーブメント・Caliber 1
GPHG: https://www.gphg.org/en/watches/la-montre-monsieur-de-chanel
と紹介されています。
この「GPHG(Grand Prix d’Horlogerie de Genève)」は、時計界においてアカデミー賞的な存在でスイスに拠点を置く公的な財団が運営し、アカデミー会員や専門審査員が厳正なプロセスで時計を評価する仕組みを持っています。
そのため、GPHGで紹介される実績は、ブランドの技術力と正統性を示す確かな裏づけとなるのです。

image by CHANEL
Caliber 1の大きな特徴は、「ジャンピングアワー」と「レトログラード分表示」にあります。
ジャンピングアワーは、文字盤の小窓に表示された時刻が1時間ごとに瞬時に切り替わる方式で、時の流れを飛躍として体感させます。
一方のレトログラード分表示は、分針が0分から60分まで弧を描いて進み、60分に到達すると瞬時に0分へ戻る仕組みです。針がパチンと跳ね返るその瞬間は、機械式時計ならではのダイナミズムを味わわせてくれます。
また、Time & Tide Watchesは「Caliber 1はCHANEL初の自社開発ムーブメントで、完成までに5年以上の開発期間を要した」と伝えており、さらにA-Plus Singaporeでも「完全に自社で設計・開発されたCHANEL初のムーブメント」と記載されています。
Time & Tide Watches:
https://timeandtidewatches.com/monsieur-de-chanel-evolves-in-depth/
A-Plus Singapore:
https://aplussingapore.com/interactive/calibres-de-chanel/
このように、自前の工房と長期間の技術開発によってこそ、CHANELは真のマニュファクチュールであると時計界に認められたのです。
この姿勢は、CHANELが洋服やバッグで培ってきた「アトリエ文化」の延長線上にあるように感じます。パリのクチュールメゾンが職人の技を守り育ててきたように、時計事業においてもまた、職人の手仕事を重んじ、技術と美意識を融合させる道を選んだのです。
CHANELが生み出すものは、常に機能性と美しさを同時に満たすものです。
その原理は時計でも変わりません。J12は素材とデザインで革新をもたらし、工房での技術投資によって真の説得力を獲得。こうしてCHANELは、誕生から10年未満の歴史しか持たないにも関わらず、100年を超えるスイスの伝統ブランドと肩を並べる存在へと歩みを進めたのです。
第6章|結び:CHANELが刻む「時間」の美学
CHANELが時計の世界に足を踏み入れてから、すでに数十年が経ちました。
プルミエールが示した「女性のための新しい時代のかたち」、そしてJ12が切り開いた「革新素材と機械式技術の融合」。その歩みは、後発でありながら時計史に確かな存在感を刻んできました。
CHANELの時計は、単に時刻を知るための道具ではありません。無駄を削ぎ落とした実用性の中に、美しさを宿し、遊び心さえ忘れません。
そこに流れているのは、バッグや香水と同じように、時代を超えて愛される「新たなブランドアイコン」を生み出す力です。
そして何より、リュウズを回す瞬間に感じるあの小さな高揚感です。針が静かに動き出すとき、私は「時間が始まる」ことを意識します。それは、時間が流れるものではなく、選び取るものへと変わる瞬間です。
あなたにとって、今この瞬間を共にしたい「身につける時間」とは何でしょうか。
Sources
CHANEL:
https://www.chanel.com/jp/watches/watch-manufacture/
https://www.chanel.com/jp/watches/watch-manufacture/ceramic/
https://www.chanel.com/jp/watches/manufacture-movement-watches/
https://www.chanel.com/jp/watches/watch-manufacture/precise-techniques/
CHANEL Booklet:
PREMIÈRE IN PARIS
LA MONTRE PREMIÈRE ÉDITION ORIGINALE
長沢伸也・杉本香七 編著
『シャネルの戦略 究極のラフジュアリーブランドにみる技術経営』
東洋経済新報社
GPHG:
https://www.gphg.org/en/watches/la-montre-monsieur-de-chanel
Time & Tide Watches:
https://timeandtidewatches.com/monsieur-de-chanel-evolves-in-depth/
A-Plus Singapore:
https://aplussingapore.com/interactive/calibres-de-chanel/
IWC:
Innovative materials – Ceramics
https://www.iwc.com/us-en/specials/innovative-materials
Quill & Pad:
Understanding Ceramics Now Used For Watch Cases
https://quillandpad.com/2015/10/30/understanding-ceramics-now-used-for-watch-cases/