はじめに
CHANELには現在、クリエイティブディレクターが存在していません。2024年にヴィルジニー・ヴィアールが退任して以来、マチュー・ブレイジーが就任するまで、ブランドは一時的に“空白の時代”にあります。彼のコレクションは2026春夏(2025年10月のパリ ファッションウィーク)での発表ではないかと言われています。
それでもCHANELは止まらず、プレコレクションやプレタポルテ、メティエダールといったコレクションを継続的に発表しています。外部から見れば不思議なようにも思えるかもしれません。けれど、そこにはCHANELというブランドの構造的な強さと、アトリエという存在の大きさが見えてきます。
いま、CHANELでは誰が服をつくっているのか?——この問いをきっかけに、私はブランドの“語られない時間”に耳を澄ませてみたくなりました。

過去:語られたCHANEL
カール・ラガーフェルドが率いたCHANELでは、コレクションがファッションを超えた“スペクタクル”として展開されていました。ロケットが発射され、氷山が登場し、空港、スーパーマーケット、図書館、森林など、ランウェイは毎回まったく異なる世界に変貌していきました。
演出は単なる装飾ではなく、コレクションのコンセプトやメッセージを視覚的に語るものであり、それ自体がストーリーでした。カールのCHANELは「驚き」と「遊び心」で観客を魅了し、“語ること”そのものがブランドの力になっていたのです。
彼の死後、その“語り”を懐かしむ声が今でも多く聞かれます。


現在:語られないCHANEL
現在のCHANELでは、過度な演出は控えめになり、コレクションの表現も静かなものになっています。しかし、それは決して物語が消えたわけではありません。
たとえば、2025年のプレコレクションでは、ココ・シャネルのトレードマークであったイミテーションのパールをモチーフとしたルックが並び、クラシックなシルエットにモダンな軽やかさを加えたスタイルが登場しました。
グラン・パレのランウェイに設えられた白い鳥かごを彷彿とさせるプレタポルテは伝統的で洗練されたエレガンスを表現しています。
杭州の西湖で行われたメティエダール・コレクションは、ガブリエル・シャネルが愛した漆塗り屏風からのインスピレーションを受け、繊細で奥行きのある美意識を感じさせるものでした。
そして、BLACKPINKのジェニーにインスパイアされた若々しいムードの最新コレクション。カジュアルな要素も見られ、若い世代へのアプローチも試みられています。
こうしたストーリーは明確に語られることは少ないものの、服の細部や空間の設計に“そっと置かれている”のです。
私自身、ブティックを訪れた際、ココ・シャネルが大切にしていたラインやディテールに触れることで、彼女の思想の“痕跡”のようなものを受け取った気がしました。

@2025PhiloMode
アトリエの“手”から伝わる美意識
CHANELのアトリエには、ルサージュやモンテックス、ルマリエ、マサロなど、伝統工芸の名手たちが揃っています。彼らは、刺繍、装飾、羽根細工、靴づくりといった専門分野において長年の経験を積んだ職人たちです。
デザイナーの不在という状況下において、彼らの“手”がますます重要な意味を帯びてきました。服のライン、装飾の配置、生地の選定など、細部の判断はアトリエの知恵と美意識によって支えられています。
私自身、ブティックでツィードの質感や金ボタンの重み、ポケットの位置などに触れたとき、それらが無言のまま語りかけてくるような感覚を覚えました。言葉で説明されることなく、服に宿る思想のようなもの——それはまさに、アトリエの手から立ち上がる美意識だと思います。
そして、この“手”の存在をより多くの人が感じられる機会が、まさにこの秋、日本にも訪れます。
2025年9月30日から10月20日まで、六本木ヒルズ 森タワー52階にて、エキシビション「la Galerie du 19M Tokyo」が開催されます。
https://www.chanel.com/jp/fashion/event/opening-gallery-19m-tokyo-2025/
感嘆とサプライズ、そして対話が生まれる空間として企画されたこの展覧会では、メティエダールの魅力や、le19Mに集う11のメゾンダールの職人たちの仕事に触れることができます。
“語られないCHANEL”の真価を、言葉ではなく“体験”を通して感じられる場。
今この時期に、アトリエを主役としたこうしたエキシビションが開催されるというのも、静かに語りかけてくるCHANELの姿勢を象徴しているように思えてなりません。
そしていま、CHANELの服には奇をてらうような要素は減り、むしろベーシックなスタイルが印象に残ります。
ココ・シャネルが遺した原型的なツィードジャケットやセットアップが、かつて以上に自然なかたちで並んでいます。
“強く語らない”服は、ときに“長く語り継がれる”服になります。
ショーの派手さに惹かれていた人には静かに感じられるかもしれませんが、長年憧れていた定番のアイテムを迎えたいと思っていた方にとっては、いまこそが好機かもしれません。


ベーシックに戻るという提案
いまのCHANELのコレクションには、かつてのような目を引く斬新さや演出はありません。けれどその代わりに、ツィードジャケットやセットアップなど、ブランドの“核”とも言えるベーシックなアイテムが再び前面に出てきています。
これは、CHANELの本質に立ち返るチャンスでもあります。多くの人にとって、ツイードジャケットはいつかは手にしたい憧れの存在。けれど、これまではショーの派手さや限定感の中で埋もれてしまっていたのかもしれません。
今は静かな分だけ、服そのものとじっくり向き合える。そんなタイミングでもあると感じています。
CHANELという構造の強さ
CHANELのようなラグジュアリーブランドは、ひとりのデザイナーの力だけでは動いていません。歴史、職人、顧客との信頼、マーケティングといった複数の要素が複雑に絡み合い、ブランドの“構造”を成しています。
たとえば、フィービー・ファイロが去った後のCELINEや、創業デザイナーであるドリス ヴァン ノッテン(DRIES VAN NOTEN)退任後しばらくはデザインチームが引き継ぎ、ブランドは揺らぎながらも継続してきました。CHANELもまた、語り手がいなくなってもショーを止めず、商品を提供し、顧客との関係を続けてきた。それはブランドそのものが“自立”した構造体であることの証でもあります。
語られないことに耐えられる構造。それがCHANELの強さです。

未来へ:マチュー・ブレイジーの就任
2026年春夏より、CHANELは新たなアーティスティック・ディレクターとしてマチュー・ブレイジーを迎えます。彼はかつてBOTTEGA VENETAでクリエイティブを担い、建築的なミニマリズムと、素材の持つ存在感を際立たせるスタイルで高く評価されました。
静けさ、造形美、誠実な物づくり——それらは、いまアトリエによって紡がれているCHANELの方向性と、どこか重なります。新たな語り手がどのようにCHANELという構造に加わり、再びブランドが“語る”ステージへ進むのか、注目が集まっています。
ですが、その前に。この“語られなかった時間”があったからこそ、見えてきた美しさも確かにあったことを、私は記録しておきたいと思っています。
おわりに
語られない服、語られない時間。そこに美を感じられるかどうかは、受け取る私たち側の感性に委ねられています。
華やかさを求めるのではなく、静けさのなかにあるものに目を凝らす。語られたストーリーを追いかけるのではなく、自分自身で物語を拾い上げる。いまのCHANELには、そんな姿勢が自然と求められているような気がします。
手で紡がれ、声を上げることのない服たち。
私はこれからも、それらと向き合いながら自分なりにCHANELを“読む”ことを続けていきたいと思います。
